やあヘビだよ。
今回は2021年スウェーデンのNetflixオリジナルスリラー映画「赤い光点」の感想。
新婚生活を送る若い夫婦デビッドとナジャは倦怠期を迎えていた。
関係を修復したいと思ったデビッドはサプライズでナジャをオーロラが見れるキャンプに誘う。
現地は貸し切り状態のロマンチックな雪原で2人の関係は修復されるかと思ったが話の途中でレーザーポインターがテントに当てられていることに気づく。
子供の悪戯かと思ったが突然狙撃が始まる。
2人は極寒の雪原の中、雪山の装備もないまま見えない相手から逃げ惑う事になる。
この映画はすごく不思議なんだ。
映画的にはよくできてて真っ暗な雪原で狙撃される恐怖はなかなかのもの。
だけどなんとこの主人公たちに愛情を感じない。
なので他に誰もいない真っ暗な極寒の雪原で狙撃されながらさまようという状況なのに主人公たちに同情できないせいでスリルが半減した感じがする。
2人が襲われる理由が判明してからはもう主人公たちに同情の余地がないんだけど、理由が判明する前からなんか2人を応援できない。
逆に主人公に同情できる今までの映画が不自然だったんじゃないか、
またこの映画こそ加害者と被害者を中立で見れるほどよくできた映画なんじゃないかとも考えさせられる。
そんな出来が良いのに主人公に共感がもてない不思議な映画「赤い光点」について考察してみようと思う。
雪原の処刑場

結婚生活が1年半過ぎたころ
仕事で疲れていると家事を手伝わないデビッドと医学生で勉強をしながら家事をするナジャの夫婦関係は壊れかけていた。
デビッドは仲直りするためサプライズでハイキングの装備をナジャにプレゼントしオーロラをみにいこうと誘った。
現地の雪原は貸し切り状態だった。
テントの中で落ち着いたころナジャは妊娠したとデビッドに告げる。
不安なナジャをよそにデビッドは笑顔で受け入れてこれからいい方向に行く気がした。
その時ナジャはテントに赤い光点があることに気づく。
外に出てみると赤い光点はレーザーポインターでデビッドとナジャの体を狙ってくる。
子供のいたずらかと思っていたが突然真っ暗な雪原に銃声が響く。
デビッドとナジャは必死に木のあるほうへ移動を始めるが照明弾が上がり2人は明るく照らし出される。
いやあ怖いです。
何が怖いって仮にも観光地ですよここ。
観光地での大胆な犯行が助けを求める人が周りにいないことを意味している。
デビッドとナジャは観光にきただけだし貸し切り状態の真っ暗な雪原だとしても、ここは外国人も観光にくるような場所だから銃声なんか誰かが気づくはず。
そんなとこで大胆に狙撃してくるだけでも怖いのにさらに照明弾。
この時点では観客もデビッドとナジャも狙撃はガソリンスタンドからひと悶着あった山岳救助隊の2人の嫌がらせだと思ってる。
でも照明弾が上がることで、ああここには誰もいない目撃がいない。
ここで撃ち殺されても誰も気づかないんだという恐怖に飲み込まれる。
この雪原こそがデビッドとナジャに息子を殺されたトーマス夫妻と仲間が長い事準備をしてきた処刑場だった。

題名の赤い光点が出てきたとき
主人公がこの赤い光点から最後まで逃げ惑うだけの映画かと思った

そう聞くと逆に面白そうな気もする

1971年「激突!」とか
2003年「フォーン・ブース」みたいに

いやもう悪い意味のほう

でしょうねえ

しかし最近の邦題はひねりがないよね
「赤い光点」って原題まんまだしそもそも赤い光点なんかテントのとこで出てくるだけだし
「罪過」みたいのがよかったんじゃないかな

最近にしてはなかなかいいほうなんじゃないか?
もうちょっと前だったら「レッド・ドット」とかなってたぞ

2000年あたりそんな感じの邦題な時代だったねえw
「ビューティフル・マインド」とか
「ディパーテッド」とか
原題をカタカナにしただけの邦題が多かった気がする

そうなのじゃ
最悪の勘違い

デビッドとナジャはガソリンスタンドからの出来事によって狙撃の犯人は山岳救助隊の2人の逆恨みだと思い込んでしまう。
しかし山岳救助隊の2人からしたらとんでもないことだ。
デビッドとナジャ目線
- <ガソリンスタンドで差別的発言をされる>
北欧でも人種差別があるのかそれともよそ者差別ということなのか - <荷台にシカの生首>
山岳救助隊の車の荷台に血の滴るシカの生首があった
デビッドはなんて野蛮なやつらだと思ったことだろう - <車に傷をつけられたうえに “黒人が乗っています” と落書きされた>
“HUND I BIL” (犬が乗っています) という車のマグネットシートに
“SVARTSKALLE I BIL” (黒人が乗っています) と落書きされていた - <偶然みつけた山岳救助隊の車に仕返しをしたら犬を放たれた>
この時の山岳救助隊の反応からして “黒人が乗っています” って書いたのこの人じゃないような気もしたけどどうなんだろう - <狙撃者の銃は車の荷台にあったのと同じシングルショットライフル>
狙撃されてるときに銃声の間隔で狙撃犯は単発銃を使っていると思ったデビッドはガソリンスタンドで山岳救助隊の車の荷台に載ってた銃が同じタイプだったことから犯人を断定してしまった
ちなみに単発銃から始まった銃の歴史だけど何世紀も経った現代でも需要があるようで生産され続けてるらしい
この土地でも極寒の地という事で単純構造で故障の少なさから単発銃の愛用者が多いのかな?
山岳救助隊目線
- <車を当て逃げされた>
ガソリンスタンドでちょっとおちょくった観光客に当て逃げされる - <翌朝さらに工具で車に傷をつけられる>
あの観光客が翌朝さらに工具で車に傷をつけにきた - <救助にかけつけると発煙筒を食らう>
救助要請があって駆け付けたらあの観光客でいきなり発煙筒を撃ってきた - <石で殴られる>
パトロール中にあの観光客の女をみつけてどうしたんだと尋ねたら後ろから観光客の男に石で殴られる
もう狂ってるよあの観光客関わりたくないよw

ガソリンスタンドのシーンは観客に山岳救助隊が悪人だと思い込ませるようで違和感がなかった?
サスペンスなんかだと登場時の悪人は主人公に警戒させないからね
やりすぎて逆にこいつ無害なんだと思った

そう言われればそうかも
でも全く気づきませんでしたね

しかも犬飼ってる奴が犬を怖がらせるのおかしいだろw

ふむふむたしかに

まんまとひっかかってた微塵も疑わなかった
発煙筒食らったほうの人が救助に来たとこらへんでようやく
犯人はこいつらじゃないかもと思ったぐらいだったし

なんかやたら澄んだ顔で救助にきたよねあいつ

あっちの人はもともと意地悪じゃないだろw
最初から同情できない主人公たち

デビッドとナジャは過去にとんでもない過ちを犯していた。
それが判明してからの観客は2人に嫌悪感が出てきたりしたとは思うんだけど
なんかこの2人、
最初から魅力がない気がしませんか?
<デビッド>
- パートナーがイライラ家事をしてるときにダラダラとソファでゲームをしている
ナジャがいないときにやれ
- ウジウジしててハッキリしない
- 逃走直後にトラばさみにやられる
- 警告しているのに氷の下に落ちる
- 何かあるごとにナジャに助けを求める
<ナジャ>
- 物に当たる
- 汚い言葉を吐く
- 他人の車に傷をつける
- イライラしている
主人公が過ちや犯罪を犯す話や映画って大体は主人公なりの正義があったり、外道なりにやさしさや思いやりがあったりするものだよね。
でもこの2人はそれが一切ない。
観客視点での情状酌量の余地がないんだ。
映画的に珍しいよねえ。
子供を車ではねてナジャが死んでいるのを確認した直後のデビッドなんか
「少し運転してよく考えよう」
「今は運転しようよく考えよう」
と言いながら現場から離れる。
これギャグレベルじゃないですか?w
殺意が沸くよね。
ナジャはナジャで終盤
「私は逃げない決着をつける」
とか言ってトーマスを殺そうとする。
は?
逆ギレすぎんだろw
そもそも子供をはねたときに逃げなければ山岳救助隊もトーマスの友達も死ぬことはなかった。
ひき逃げをしてさらにみんな殺して普通の生活に戻ろうとする図々しさ。
でもここでふと思う。
映画にムカつくわけじゃない主人公にムカつくんだ。
という事はこれは意図的な演出なんだろうと。
そして過ちを犯した主人公に同情できる理由がある他の映画がおかしいとすら思えてくる。
そもそもひき逃げに正義なんか無いのだと。
「子供を轢き殺して逃げるようなやつは夫婦もろとも地獄に落ちるべきだ」
という強いメッセージを感じる。

少し運転してよく考えようw

ぶん殴りたいw

ナジャもムカつくよな
お腹に赤ちゃんがいるとか言って命乞いしてるし

だからなんだよ!!
赤ちゃんがいなきゃ半減なんだよ!!

自分の子供がいる状態で子供を殺された気持ちを思い知れって要素が追加されたことによって復習がより効果的になってんだよね

そうなんだよ
洗濯室みたいなとこで妊娠を知ったトーマスがどれほど神に感謝をしたか

神は復讐を後押ししてくれてると思ったぐらいだよね

まあそもそも車道に子供を誘導したトーマスにも非がありそうだけどな

なんと!
主人公たちがムカつきすぎてそれは盲点だった

そういえばそうだ
子供はお父さんが操縦したドローンを追いかけて行って車道に突っ立ってたんだもんね

自ら復讐するために容疑差を警察にふせたんじゃなくて
子供を故意に危険な目に合わせた感じになったから警察にみせられなかったんじゃねえの

まさかw
でもたしかに裁判とかなったら不利な証拠になりそうではあるね
あくまでも個人の感想です。みんなはどう感じたかな?